ベース弦 - Richard Cocco RC4F N 

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 すっかり忘れておりましたが,前回の報告後,『Richard Cocco(リチャードココ)RC4F N(ラウンド,ニッケル,045-100)セット』を使ってみました.

 結果は,”良い”です.私のベース(セイモア・ダンカンのジャズベースタイプ,パッシブ)と私の弾き方には,こちらのセットの方が合っているようです.045-105のセットで気になっていた3,4弦の耳障りな倍音が出なくなりました.テンションもやや緩くなりひきやすくなりました.

 音質の方も,新品は適度なギラギラ感があり,時間が経っても急激に落ちることのない,なだらかな劣化カーブを描いている気がします.また適度に劣化した音は”死んだ”音ではなく,なかなか味わいのある音が出ているように思います.これはお財布に有り難いですし,”死んだ”音好きにはたまりません.

 ユーザの多い普及版のダダリオよりもちょっと価格は高いですが,芯のあるやや太めの音,所謂”死にかけ”の音が好きな方にお奨めします.


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失われた時を求めて6 第四編 ソドムとゴモラ I - マルセル・プルースト  

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失われた時を求めて6 第四編 ソドムとゴモラ I - マルセル・プルースト
井上究一郎訳 - ちくま文庫版(筑摩書房)


    シャルリュス氏の秘密,ソドムとゴモラの世界の幕開け
    バルベックへの2度目の旅立ち,祖母の思い出,母への想い
    バルベックでの生活,アルベルチーヌへの疑惑

本巻は,前巻の最後の方で仄めかされていた(前巻では跳ばされていた)衝撃的なシーンで幕を開けます.それはシャルリュス氏の裏の姿を「私」が覗き見して知ってしまうシーンです.

タイトルはご存じのように旧約聖書に出てくる都市の名前ですが,これが何を意味しているのかは予想できますよね? シャルリュスは,その住民だったのです.それどころか本巻では,その都市の住民が多数出現,或いは仄めかされます(一部,「私」の思いこみもあります).

最初の衝撃的なシーンの後は,本来の時間軸に戻って,ゲルマント大公夫人のパーティの様子を描くシーンに戻ります.ゲルマント大公夫人は,ゲルマント公爵夫人とは別人であるので注意です(貴族ものはこういうのが多くて困ります.位が上がって途中で名前が変わることもありますし).親戚関係ではあります.

このシーンでは,前巻でのゲルマント公爵夫人のパーティのような相変わらず中身の無い会話,おべっかや虚勢,親類の不幸よりも楽しみにしているパーティへの出席を優先するゲルマント公爵の姿,各人に対する「私」の印象,洞察などが描かれます.このシーンで重要なポイントは,スワンとゲルマント大公(大公夫人の夫)との会話でしょう.ここが,本書のテーマの一つであるドレフェス事件に関する転換点になります.


やりきれないパーティの後,「私」は4月上旬の肌寒い時期からノルマンディの保養地「バルベック」へ旅立ちます.2回目の訪問です.ここでいきなり「心情の間歇」という,亡くなった祖母の思い出を通して己の心の動きを深くえぐった,少し陰鬱なシーンが描かれます.祖母の臨終のシーンの回想では,またもや涙してしまった自分です.この「心情の間歇」というセクションは,少し哲学的な考察(時間とか記憶とか…)に満ちています.

「心情の間歇」の後は,バルベックの2度目の滞在体験が描かれてます.1度目の滞在では,一見さんの金の無い客とあしらわれていた感じですが,2度目は完璧です.上客として恭しく対応されます(それについてもいろいろ皮肉を思う「私」ではありますが).

そして,恋人アルベヌチーヌも近くの別荘にやってきて,「私」と一緒に過ごしますが,すでに「私」は彼女を心から愛してはいません.それでも時々彼女を呼び出したりして,とんでもないヤツです.

”愛していない”というのは語弊があるかもしれません.恋愛初期の燃え上がる時期が過ぎて,落ち着いた時期(倦怠期?)に入ったのかもしれません.この辺りはいろいろな角度から読めるかと思います.自分は,愛していないわけではないとしたら,ちょっと言葉の攻撃が過ぎるのではないかと感じました.それだけ彼女から愛されているのか? 彼女のことはどうでも良いのか? どうせ「私」の金目当てだと思っているのか?などの「私」の理由があるのかもしれません.

その内に「私」は彼女も旧約聖書の都市の住民でなかろうかと疑いだし,苦しみます.彼女を愛していないような態度,心情を述べているにもかかわらず変ですね.独占欲なのでしょうか? もう愛していないがかつて愛した人なのでそのような都市の住民であって欲しくないという欲なのでしょうか? それともまだ愛しているのか?

最後には「私の嫉妬は,急にやむことになった.」という曖昧な文章で本巻の終わりを告げます.


読んだ感想としては,心情の間歇部分がやや難解だし,バルベックでの生活描写もやや飽きる感じでしたが,この巻も,シャルリュス氏,スワンとゲルマント大公の会話,ソドムとゴモラの出現という重要なポイントが散りばめられ,その部分はかなり面白く読み進めることができました.

ちなみに「シャルリュス」と言う名は,英語やフランス語ではそのままソドムの住人,嫌なヤツなどの隠語として使われることもあるようです(読んだことのない人には何のことやらサッパリですね).

また,著者「プルースト」の実の人生を知ると,”なるほどね~”とか”そうだったのか!”と驚くところが増え,面白く読み進められますが,あえてここでは明かさないことにします.


Greets Led Zeppelin - Sly & Robbie / グリーツ・レッド・ツェッペリン - スライ・アンド・ロビー 

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Greets Led Zeppelin - Sly & Robbie
(輸入盤はこちら)

世界一ノレるリズム隊,プロデューサーコンビ,The "TAXI" ことSly & Robbie/スライ・アンド・ロピー(Sly Dummber/スライ・ダンバー&Robbie Shakespeare/ロビー・シェイクスピア)がやってくれました.構想10年(ほんとか?)のLed Zeppelin/レッド・ゼッペリンのカバーアルバムです.ちゃんと御大ジミー・ペイジへの報告もしてあります(「あなた達にカバーされるのは光栄だ」との返答だったとのこと)

Sly & Robbie(以下,スラロビ)は,ジャマイカ出身のベテランリズムコンビ,プロデューサーコンビです.やはり本職はレゲエの楽曲が中心ですが,それだけにとどまらず,フュージョンやロック系のアルバムにリズム隊として参加したり,自らもニューヨーク・ミクスチャー系(ビル・ラズウエルとかその辺り)のアルバムを出したりと,受け皿の広いコンビです.私自身も最初に彼らの音を聴いたのが渡辺香津美のアルバム「MOBO」(オマー・ハキム&マーカス・ミラーとのツイン・ドラム&ツイン・ベースの曲を演奏してます!)だったと記憶しています.

アルバムの内容ですが,はっきり言ってイタい曲もありますが,とても素晴らしいアレンジの曲もあり,全体としては合格点です.特に,Leba/リーバ・ヒバートという女性ヴォーカルを入れた曲はどれもいい感じに仕上がっています.

個人的なベストは,「Goint To California/ゴーイング・トゥ・カリフォルニア」のポップヴァージョンでした(バラード・ミックスってのも入ってますが,こちらは原曲にかなり近いです).メロディの良さも再認識できますが,ここでのロビー・シェイクスピアのベースラインにぶっ飛んでしまいました.FunnyとCoolのギリギリの線の面白さというか….一回目の傾聴で面白さと格好良さで部屋で悶えてしまいました(電車の中で聴かなくて良かったあと思います.かなりヘンな人に思われたでしょう).
 
彼らは特に馬鹿テクとかそういう演奏では無いんですが,レゲエで鍛えたのノレるラインとグルーブ,ドラムの音の隙間にベースが絡みつくような妖しい,アバンギャルドな独特のラインに面白さがあると感じます.前述のアルバム「MOBO」での,オマー&マーカスの馬鹿テクリズム隊とは正反対の音を出していて非常に面白いです(たぶん意識的にコントロールをしているとは思いますが,2つのリズム隊の音が全くぶつかりません).

もし,気に入ったら彼らのPファンク寄りのアルバム「Rhythm Killers/リズム・キラーズ」をお奨めします.

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実は昔このアルバムの音を聴いて,「こいつらがZepやったら面白そうだなあ」と思っておりました(先見の明有り?).スライのベードラの音がボンゾしております.シンセ・ドラム(懐かしい響き!)を使っているから反則でしょうか?(^^;


失われた時を求めて5 第三編 ゲルマントのほう II - マルセル・プルースト 

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失われた時を求めて5 第三編 ゲルマントのほう II - マルセル・プルースト
井上究一郎訳 - ちくま文庫版(筑摩書房)



 この巻の後半は,ほとんどがサロンでの晩餐会の描写であり,少し飽きるところもありますが,実は重要な場面があちこちにちりばめられていて,手を抜けないセクションなのであります.
 
 最初に衝撃的な話が挿入されます.それは「私」が愛していた祖母の死です.ここでは,祖母のベッドの周辺で,おなじみの女中頭のフランスワーズ,第一巻からキーポイントで現れるコタール医師の奮戦(会話は下品だが,腕は確かな医師)が展開されます.「私」の愛する人の死を目の前にした比較的客観的な,淡々とした描写がかえって心を揺さぶり,最後の場面では,こちらも泣きそうになりました.

 また,ここでゲルマント公爵がお見舞いにやってきますが,家柄や躾よってもたらされると思われる礼儀正しさに「私」は感心しながらも,形式的で空気を読めないお馬鹿さにうんざりし,この印象が後の話の伏線となります.
 
 次は,サン=ルー(ロベール)の彼の恋人との別れ.彼女は,駆け出し女優であり,自分の意見をしっかり持ち,会話も楽しいものでありましたが,元は娼婦であり,女友達は娼婦のような娘ばかりでした.また,確かに会話は楽しいものであったが,やはりレベルが低いと感じてきます.サン=ルー自身はまだ付き合う気でいたようですが,一族からの大反対,モロッコへの赴任(陸軍所属)などもあり,サン=ルー本人も徐々に冷めていきます.

 その次にアルベルチーヌとの再会が挿入されます.前回の出会いでは,彼女の家を訪問し,具合が悪く彼女がベッドで休んでいる状態で,「私」がモーションをかけ,軽くあしらわれました.今回は逆の状態です.「私」の具合が悪く,自分のベッドで休んでいるときに,彼女が現れ,今度は彼女の方が迫ってき,肉体的接触があります.

 しかし,第一印象の,男子特有の一方的な身勝手な(笑)憧れはすでになくなっており,全面的に彼女を愛せる心境ではなくなっているようですが,悪い娘ではないし,今後も彼女との関係が続くことを「私」は予想します.これも次の章以降につながっていく重要なエピソード.


 これからは,本書の一つの山場である.晩餐会の描写が始まります.
 「私」は高級官僚の息子であり,貴族ほどではないにしろ家柄も悪くないので,貴族やブルジョワのサロンに通され,やがて,文学や歴史,芸術に明るい人気者になり,憧れであった貴族のサロンに頻繁に出入りするようになります.ここでは,ゲルマント夫妻の叔母にあたるヴィルパリジ夫人の晩餐会,ゲルマント公爵夫妻の晩餐会に出席します.

 しかし,あれほど憧れていたゲルマント公爵夫人や高貴な秘儀のように思っていた大貴族のサロンへの熱はすでに冷めています.確かに,大貴族達にはブルジョワや帝政貴族の人達にはない個人的な資質以外としか考えられない家柄や血筋の良さ,躾の良さなどが態度や会話に現れていて,それらの面では関心させられることも多いが,他方,会話の内容は,スキャンダルと,他のサロンの様子,あれやこれやのうわさ話,素人レベルの芸術作品の評価などばかりで,「私」は彼らかは学ぶことは何もないと思いながら,サロンの様子を描写していきます.
 

 その後,次の章の内容の伏線となるシャルリュス氏(ゲルマント公爵の実弟)宅への訪問の場面があります.

 「私」は他人に聴かれないように耳元で「23時に来てくれ」と氏に誘われ,ゲルマント公爵夫妻に引き留められながらも彼を訪問しました.しかしそこでは,明確な理由もなく,ゲルマント夫妻に今夜の訪問のことを話したことなどをひどく咎められ,「私」も憤慨して口喧嘩状態となります.しかし,氏は「今夜限りでもう会うことはないでしょう」などと「私」に絶縁の言葉をぶつけながらも,「最後の夜だから,一緒に散歩をしよう」などと別れが惜しいような態度をとり,「私」を混乱させます.「私」も彼の性格,性癖をうすうす感づいていったところで氏と別れます.

 
 また場面が変わり,後日「私」はゲルマント大公(ゲルマント公爵とは別人)のサロンに出かける前に,ゲルマント公爵夫人を訪ねます.それは”「私」にもゲルマント大公からサロンへの招待状が届いたがそれが誰かのからかいではないか”と心配して,彼女に確かめてもらいという軽い訪問でありましたが,そこで偶然に付き合いがなくなっていたシャルル・スワンに再会し,彼の病身に驚くことになります.スワンと公爵,公爵夫人の会話,「私」達の訪問前に公爵を訪れていた彼の親戚によって知らされた彼の従兄弟の重篤な症状,それを傍聴していた「私」の印象を含め,このちょっとした訪問が重要なエピソードとなります.

 この後,実は全員がこの後のゲルマント大公のサロンに招かれていること,スワン自信が己の死の予兆を感じながらも,重要な用件を聴くために大公夫妻に会いに行くこと,前半でも現れたゲルマント公爵の馬鹿加減,従兄弟の最後の日よりも,晩餐会とその後の仮装舞踊会への参加を優先する社交感覚(もちろん喪に服すよりも自分が楽しみたいから),その彼に同調し一見享楽的に見えるが,実は人を気遣う繊細な心も持ち合わせた公爵夫人の心境,特にスワンへの大変な労りなどが描写されます.

 
 ここまでが大雑把なあらすじです.
 
 Wikipediaのフランスの歴史辺りを少し読んだので,サロンの会話の中で語られる王家,貴族の拝啓や洒落などが少し理解できるようになって,嬉しいです.貴族やブルジョワのサロンへの参加というのはもちろん経験がなく,実感がわかないですが,日本で言えば,明治の頃の華族の主催する舞踊会,財閥社長の主催する舞踊会,各国大使が主催するパーティに,いろいろな話のネタを持っている外務省の事務次官,局長の息子が出席するみたいな感じでしょうか.
 
 あー,さらっと書くつもりがやっぱり長くなってしまいました.次の章はいきなり衝撃的な場面の描写から入っていくようです.


/* リンクとか */
 フランスの歴史 - Wikipedia


/* おまけ */
最近の麻生太郎自民前幹事長のインタビューに,
「政治家の感性っていうのは麻生の生まれとか育ちとか、そういったものだけで決めつけがちだが、国民は別の感性で麻生太郎をみているんだと思う」
という言葉があったらしいですが,これは,上に述べたような社交界における”わかる人”と”わからない人”の差に類似しているように思いました.