失われた時を求めて7 第四編 ソドムとゴモラ II - マルセル・プルースト  

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失われた時を求めて7 第四編 ソドムとゴモラ II - マルセル・プルースト
井上究一郎訳 - ちくま文庫版(筑摩書房)


    ラ・ラスプリエールにおけるヴェルデュラン家の晩餐会
    シャルリュス氏の性癖と凋落の始まり
    アルベルチーヌとの冷めた関係

 本巻は,前巻から続いて,バルベックの周辺,カンブルメール家から借りている景色の良い別荘「ラ・ラスプリエール」において幾度となく開かれるヴェルデュラン家の晩餐会/サロン,そこに向かう軽便鉄道,馬車の中の様子,馬車や自動車を使った「私」の散策,「グランドホテル」の様子などが舞台となります.

  ・・・

 「私」は,芸術に関する興味深い会話のでき,人から嫌われる欠点もなく,敵の少ないなどの理由から,すっかりサロンの人気者になっています.

 晩餐会では,小さな”核”の主催者=ヴェルデュラン夫妻,ゲルマント公爵の実の弟=シャルリュス氏,駄洒落は下手で下品だが腕が立つ医師=コタール(今は教授になり,かなり偉くなっている),老人文学者のブリショ(教授?),ラ・ラスプリエールの所有者である田舎貴族=カンブルメール伯爵夫妻らの面白い/interestingな会話,見栄の張り合い,嫌みの応酬が繰り広げられます.


 シャルリュス氏は,軍の音楽隊に所属している若い「モレル」を気に入ってしまい,何とか彼を自分の傍に置いておこうしてと,彼が所属する貴族階級よりも遙かに下の階級であり,身分的には人間的にも芸術的にも取るに足らない人達(但し「私」は除く)の集まりであるヴェルデュラン家の晩餐会に度々顔を出したりして,甲斐甲斐しい努力をしています.

 ちなみに貴族(ヴェルデュラン夫人に言わせれば”やりきれない人達”)嫌いのヴェルデュラン家の人々は,彼があの「ゲルマント家」の人間であるとは想像だにしていません.
 シャルリュス氏自身が「自分の兄はゲルマント公爵である」と言っても,「まあご冗談を」くらいにしか思っていません.


 シャルリュス氏は,”やりきれない人達”とは正反対の歴史や文化,芸術に精通した非常に高尚な会話を繰り広げ,ヴェルデュラン夫人に益々気に入られます.

 ここでの彼は,周辺の人々には自分がソドムの性癖を持つ人間であるとは気が付かないだろうと高を括っているのですが,その性癖は自分の気づかないうちに会話の端々から漏れ出てしまいます.また,彼の知らないうちの噂話が世間に広まっていて,ついにヴェルデュラン夫人のサロンにも到達し,歴史のある,位の高い貴族である彼が,周囲の人から少しずつ蔑みの目で見られるようになっていきます.


 アルベルチーヌとは,まだ付き合っています.どう読んでも「私」は,完全に彼女のことを愛していないのですが,晩餐会や散歩に付き合わせ,恋人のように振る舞います.また,アルベルチーヌも彼を大切な人と思っている”よう”です(「私」の考えしか語られていないので,本当に彼女がそう思っているかはわかりません).

 最後は,アルベルチーヌの「私の女友達はヴァントゥイユ嬢の友達だわ」と言う発言から,「私」は,アルベルチーヌがゴモラの住人ではないかという前々からの疑惑を更に深めていきます.ヴァントゥイユ嬢は,第一巻で「私」が覗き見をしている知り合い(彼女は「私」を知っているかどうかはわかりませんが,少なくとも”ご近所さん”)です.

 「私」は彼女をその女友達に会わせまいと考えて,無理矢理一緒にパリへ連れて行ってしまおうと決心し,近頃祖母にだんだんと似てきた「私」の母に「彼女と結婚しなければなりません」と見得を切ったところで終わります.

 ちなみに,「私」がバルベックに来た目的である,ロベール・ド・サン=ルー(数少ない友人.ゲルマント公爵夫人の甥)に紹介してもらったステルマリア嬢(「私」は最初成金ブルジョワの娘と勘違いしていたが,実は貴族)に会うことは,結局実現しません.

  ・・・

 最初からそうだったのですが,この巻から「私」の,”超”我が侭ぶりが大きくなってきます.上記のように,本当はもうアルベルチーヌを愛していないのに,外出や晩餐会に付き合わせたり,束縛しようとしたり,「君が必要なんです」と言ってみたり「もう君を愛していないが…」と言ってみたりと,とんでもない奴になっています.

 晩餐会での談笑では,フランスの地名の由来に関する話が延々と続くのですが,この辺りはフランス語がわからず,ヨーロッパの歴史にも疎い私には,脚注の助けを借りても辛い箇所でした.また,詩や舞台のセリフ,流行りの音楽を引用した例えやパロディなども同様でした.

 このような風景描写とその頃の新聞,公文書,音楽作品,舞台作品,絵画などを研究すると,それだけで長い人文学研究論文を書けてしまえそうなヴォリュームです.20世紀初頭前後のフランスの風俗に興味がある方は別ですが,この辺りは流して読んでも,物語の大きな展開の把握には差し障りが無いと思います.


 作品全体を通して共通することですが,この作品では,ある場面の幕開けには,「私」の時間,土地に関する考察や,心境などに関するある種哲学的な思考に関する文章が挿入され,その場面の終わりにまた同じような(但し,その場面を経験した影響を受けて考え方や心境が変化している)文章が現れるという形式が多いです.

 場面の本体では,「私」は周囲の状況の”観察者”になっていることが多く,状況描写に徹したような間延びした物語なっている場合が多いのですが,上記の場面の始まりと終わりにとても考えさせられる,「なるほどっ」と唸ってしまう奥の深い文章が展開されているので,要注意です.

 だからといって,その要注意部分だけ読んでも感銘は得られず,あくまで,異様に細かい状況描写を通じて,あたかも私(読者)が「私」と同じ体験をする必要があり,その体験を共有して初めて,哲学的な思考の正確さ,奥の深さを実感できるものだと思います.ちなみに私は所謂「哲学書」,「人生の指南書」の類の書物は好きではありません.

 単に”良いこと”,”役に立つこと”,”人生の真理と思われること”を述べるのは比較的簡単だからと思うからです.「みんな,わかっているけど,できないから苦悩しているんじゃないかあ」ということです.実際の経験や物語を通して得られたものでないと,納得できないし,本当に役に立つかどうか怪しいと考えてしまうと思います.

 その点,本作品は「私」と一緒に実際の場面を体験し,「私」と一緒に心境の変化,新しい”真理”のようなものを読みことができるので,その辺りの哲学書よりはよっぽど役に立つ哲学書ではないかと思っています.


※おまけ1
 また,この作品全体で「習慣」という単語が良く出てきますが,これは「惰性」とか(悪い意味での)「慣れ」とかの意味に捉える方が,日本語の感覚に合っている気がします.

※おまけ2
 修飾語が多くて非常に一文が長く,段落分けもない本書は,かなり読みにくい作品ですが,実は原書はこれよりも一文が長く,本邦訳版でも,一文を短くしてあるそうです.鈴木道彦邦訳では,更に読みやすく工夫してあるらしいので,初めて読む場合はそちらを選択した方が良いかもしれません.
 私は,少しでも原書の雰囲気を味わいたいと思い,井上究一郎邦訳版を選びました(最初に買おうと思ったとき,鈴木道彦邦訳はまだハードカバーしか出ていなかったという理由もありますが・・・).



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