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失われた時を求めて10 - 第七編 見出された時 - マルセル・プルースト 

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失われた時を求めて10 - 第七編 見出された時 - マルセル・プルースト
井上究一郎訳 - ちくま文庫版(筑摩書房


  ジルベルトの館に滞在した私
  第一次世界大戦中のシャルリュス氏
  ゲルマント大公夫人邸での午後のパーティ

長い時を経て,最終巻にたどり着きました.ここはクライマックスと言うより第一次世界大戦と”私”のサナトリウムでの生活のために長い間会うことのできなかった各登場人物のその後,そして”私”の”仕事”である長編文学作品執筆における目指すべき方向のひらめき,そして”見出される”と言うより,”時”の中に”見出すべきもの”が語られています.

不思議なことですが,本巻では今まで見られて長い形容詞を含んだ珠玉の文章表現は影を潜め,やや断定調の文体になります.これは,本巻の主題である”私”の決意表明的な要素が多く含まれているためなのかもしれません.

この巻の内容については今回も詳細には述べないつもりですが,これから本書を読もうと思っていて,あらすじを知りたくない方は,”続きを読む”をクリックしないで下さい.

この作品独特の比喩による文学的な極上の味わいは,前巻で終わっているといって良いでしょう.この巻は一種の評論であり,作者の決意表明であり,ある種の哲学書であると言えると思います.

でも9巻まで読んだのであれば,やはり最後の締めくくりとしてこれを読まないわけにはいかないですね.そして最後まで読むと,私の愛する(?)奇書”ドグラ・マグラ”に似た構造を持っていることがわかります.すなわち作品自身がそれ自体を生み出す物語になっているということです.これには正直”やられたぁ”と思いました.ちょっと異なるかもしれませんが、この作品で”ドグラ・マグラ的円環構造”に出会うとは思わなかったからです.

大雑把なあらすじは以下のような感じです.

***

この巻では,何組かの結婚が描かれています.詳しくは述べませんが,これらのほとんど半分持参金目当て,資産目当てみたいなもので少々面食らってしまいました.

またここでは,時を経て年を取ったかつての貴人たちに対する”私”の容赦ない老いの描写が強烈に展開されます.全く見分けが付かなくなった人々,中には年を経てもあまり変わらない人々,逆に成り上がる前の若い頃の立ち振る舞いに戻ってしまった人々等.

その描写の中で”私”も同じように時を経ており,かつての”私”ではないことに気がつきます.

また,かつてフォーブル・サン=ジェルマン(今で言うと六本木ヒルズ界隈?)一の洒落者であったシャルリュス氏の凄惨な末路が語られます.第一次世界大戦中は思いのほか的確な政策分析を行い,ソドムの性癖は持つが,登場人物の中で最も貴族の誇りを失わなかった彼ですが,その性癖のために行き着くところまで落ちてしまっていました.そして,戦後は加齢と病気に完全にかつての威勢の良さは失われてしまいました.この場面の描写は強烈です.他の登場人物もそうですが,この人物こそまさに盛者必衰を地で行った人でしょう.

更に彼の最後の姿とともに”私”は,ロベルト・ド・サン=ルーの隠された秘密も知ってしまいました.

次にゲルマント大公邸での午餐の場面に移ります.ここで,ゲルマント大公邸で石に躓いた拍子に,本書の重要なエピソードの一つである,時によって隔てられたある場面への連想が描かれかれます.これは第一巻の有名な紅茶とプチ・マドレーヌによって導き出されるエピソードと同様のものでしょう.この連想によって”私”は”時”と”記憶”の真実の姿(のある一面)を悟ることになります.
(これは誰しも思い当たる節があるのではないでしょうか.何気ない風景,香り,音によって,全く忘れていた過去の記憶が蘇ることが.)

それを再び見出して,確固たる自身の経験にするためには,今現在の雑音を遮断して”自分の奥底まで降りてゆかなければならない”が,それによって,今現在の世界とは別に広がる”時”の世界があることに”私”は気づきます.

”今”を生きており,”今”を精一杯生きることも大切ですが,各個人の心の中には各人が経験した”時”が存在しており,普段はそれに気づくことはほとんどありませんが,常にそれに支配されており,また時折このように過去と現在が結びつくことがあるのです.これによって,今の世界がまた違った様相を持ってくることもあるのです.

ある事象を表現することは,ただ単純に事実を描いたり,文字に書き記そうとしても,必ず作者の印象が入り込んでおり,これが作品の文学的価値を高めることになると”私”は気づきました.これはある種,絵画や音楽における印象派への賛意でもあります.

例えば,空の青さを物理的に表現すれば、ある特定の数値に決められますが,絵画,音楽,文学,そればかりか日常の会話では一意に決めることは不可能です.必ず印象の影響を受ける.その印象は,それを知覚した者の過去の記憶(無意識なものも含めて)から影響を受けています.また,この過去の記憶自体も絶対的なものでなく,ある事象によって喚起された現在の印象によって,変化することもあります.

そして,最後に”私”が,一時自分の才能の無さの思い込みによって諦めかけていた文学作品(=”失われた時を求めて”)を著すことを決意して,物語が終わります.

***

訳注で「サント=ブーヴに反論する」が頻出しますが,彼”サント=ブーヴ”は,文学者の過去や生い立ちを調べることによって,文学作品の評論を行った最初の文学評論家です(Wikipediaより).

これに対して”私”(=プルースト)は,ことある毎に作品の中で反論しています.曰く,作者の過去や生い立ち等を全て反映して生み出されたものが作品であり,この作品から読み手が受ける印象が作品の全てであると.”作品至上主義”というかそのような主張です.

これには私もプルーストに賛成します.ホテルの電話機をパンチで壊そうが,ニューオリンズでニューハーフの娼婦と寝てしまおうがそんなことは関係なく,彼らの生み出す作品とパフォーマンスが彼らの主義主張,表現したいものの全てであると思います(このエピソード,わかる人にはわかりますよね?).よって,例えば音作品以外で勝負する音楽家は,実は私はあまり好きではありません.

***

最後に,本作品に登場する人物のモデルについてちょっと説明します.”私”こと話者は,プルースト自身であることはすぐにわかりますね.そして,”私”の恋人アルベルチーヌのモデルになった人物ももちろん実在しました.それは”アルフレッド・アゴスチネリ”という男性です.そう,作者自身がソドムの人間(同性愛者)だったのである.今回の読了は2回目なので,この事実を知って読み進めたので,いろいろと興味深く読めました.

その他の登場人物のモデルは以下のようになるようです.

ベルゴット →アナトール・フランス?
エルスチール →ジャック=エミール・ブランシュ?
ヴァントゥイュ →サン=サーンス
スワン →シャルル・アース
シャルリュス →ロベルト・ド・モンテスキュー

その他,ほとんどの登場人物にはモデルが存在しているようですし,重要人物以外は実名のまま登場します.

というわけで,19世紀末~20世紀初めのフランスへの長い旅も終了しました.次はどこに行こうかしらんと悩んでおります.

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